光真寺(大田原市)概要: 大田山光真寺は栃木県大田原市山の手2丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。光真寺の創建は天文14年(1545)に当時の領主大田原資清(大田原家13代)が両親の菩提を弔う為、體翁麟道大和尚(資清の兄で、矢板市:長興寺第3世、宇都宮市:成高寺門葉)を招いて開山したのが始まりとされます。寺号は父親である大俵胤清の法号「明庵道光」と母親の法明「真芳妙観」に因み光真寺と命名されました。
以来、大田原家の代々の菩提寺として庇護され寺領300石(後500石)の寄進や堂宇の造営などを行い往時は七堂伽藍が建ち並ぶ壮大な寺院となりました。大田原氏は主家である那須家の家臣という立場でしたが資清は子供達を有力家臣達に養子に出した事で実質的に乗っ取りを図り、さらに跡を継いだ晴清は天正18年(1590)の小田原の役で豊臣秀吉に謁見した事で所領が安堵され那須家からの独立を果しています。
慶長15年(1600)の関ヶ原の戦いでも徳川家康が率いる東軍に与し大田原藩(藩庁:大田原城)を立藩し、大田原家が明治維新まで藩主を歴任し光真寺も藩主の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しました。当初は裏山の中腹にありましたが7代大田原藩主扶清の代の元禄年間(1688〜1704年)に現在地に移ってきています。光真寺山門は文政8年(1825)に再建された古建築物で切妻、銅板葺き、三間一戸、薬医門形式、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、中央には「大田山」の山号額が掲げられ、正面左右には石造金剛力士像は安置、建材は大田原城の城門の古材を利用したとも云われています。
歴代大田原家の墓(那須芦野石製の宝篋印塔:初代から28代勝清まで、29代以降は合葬、13代・14代は供養塔に合葬)は、当初は居城である大田原城を見下ろせる高台にありましたが昭和15年(1940)に現在地に移し、貴重な事から昭和40年(1965)大田原市指定重要文化財に指定されています。
光真寺本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、内部には本尊となる釈迦如来像が安置されています。光真寺大黒天堂は重層入母屋造り、鉄板葺き、妻入り、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、花頭窓付、内部には江戸時代初期に左甚五郎の直弟子が彫刻したと伝わる甲子大黒尊天が安置されています。おおたわら七福神:大黒天。山号:大田山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
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