日光東照宮概要: 元和2年(1616)4月17日、駿府城(静岡県静岡市)で江戸幕府初代将軍徳川家康が死去すると遺言により一端久能山に埋葬され翌年元和3年(1617)に日光に改葬されました。遺言によると「遺体は駿府城に使い久能山に納める」、「位牌は三河大樹寺(愛知県岡崎市)に安置、葬儀は江戸増上寺(東京都)であげる」、「一周忌後日光に小さな堂を建て関八州の守護神となる」。との事。家康自身は一連の葬儀をなるべく質素に行なう事を望んだようですが、拡大解釈され、日光東照宮に見られるように日本屈指の社殿となり遺体も久能山から日光に埋葬されました。久能山にも日光東照宮を小規模にした久能山東照宮(静岡県静岡市:数多くの社殿が国指定重要文化財)が造営され家康が一時埋葬された地として聖地化されました。翌年、朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられ東照社と称しましたが正保2年(1645)宮号を賜り、日光東照宮と改称しています。
二代将軍徳川秀忠は遺言とは異なり、遺体(又は御霊)を日光に遷し、決して小さくはない社殿が造営されました。その時、造営された社殿は世良田東照宮(徳川家発祥地の地とされる現在の群馬県太田市世良田に創建された東照宮、ただし、徳川家の前身である松平家が源氏の正当な家系である新田家から出たというのには諸説あり、捏造説も根強いとされます。)の拝殿(入母屋、銅瓦棒葺、正面棟唐破風、桁行5間、梁間3間、精緻な彫刻や極彩色で彩られているものの、現在の日光東照宮に比べると質素な造りとなっています。)として移築され国指定重要文化財に指定されています。
三代将軍家光は家康に対し特別な畏敬の念があり日光東照宮への参拝は19回に及び、寛永13年(1636)には社殿の大造営を行い現在に見られるような社殿群を建立しました。家康の遺言では小堂という事でしたが、埋葬地である奥宮の宝塔を小堂と置き換え、社殿群は当時の日本の技術(棟梁、彫刻、左官、絵師など、大棟梁には甲良豊後宗広、彫刻には伝説的な彫刻職人左甚五郎も参加し眠り猫などを手懸けたとされます。又、彫刻の下絵は幕府の御抱絵師であった狩野探幽が率いる狩野派が下絵をして彫刻職人が彫り込んだとされます。)が結集した壮大華麗なものとなりました。又、日光東照宮は政治的にも利用され、例祭には朝廷から奉幣使が派遣されたり朝鮮通信使が参拝に訪れたりし幕府、将軍家の権威付けが行われました。
日光東照宮は陽明門をはじめ、大規模かつ壮麗な社殿(霊廟建築)が境内狭しと軒を連ね、徳川家康の遺言の1つ「一周忌の後に日光山に小堂を建て御霊を勧請し関八州の守護神とするように。」にあるように小堂とは大きく異なります。同じく、遺言通りとすると日光には遺骸は無く、御霊だけという事になりますが、あえてどちらとも言えないような状況を作り出しています。これらは天海大僧正が大きく関わっている事が推察されますが、何故この様な対処をしたのでしょうか。一つは天海は天台宗の僧侶で、徳川家に取入り天台宗の普及させる必要性があったと思われますが、徳川家康の遺言の残りの3つである「遺骸は久能山に埋葬」、「葬式は江戸の増上寺」、「位牌は大樹寺に安置」には久能山が神式、増上寺と大樹寺は浄土宗である事から天台宗は全く関係が無く、日光山についても、家康本人は最も霊地である現在の男体山を意味したのではないかと思います。
天海としては、このままでは、天台宗と徳川家とは関係が深く成り得ない事から、日光山内にある天台宗の寺院である輪王寺の存在を最大限に利用し、同じ神式でも天台宗の守護神である日吉大社(滋賀県大津市坂本)を本社とする「山王一実神道」を猛烈に推し、神号を「権現」と誘導しました。遺言の「小堂」も家康の意向を汲まず、あくまで霊廟(墓)の事と勝手に解釈した事で、それを取り巻く境内は壮麗にし、さらに輪王寺の隣地に定めた事で必然的に輪王寺(天台宗)が今まで以上に優遇される結果となりました。
家康の遺骸についても、単なる御霊と実際に遺骸が埋葬されているとは、霊地との印象が全く異なる事から、暗に遺骸が埋葬されている事を示唆させ、さらに三代将軍徳川家光に久能山東照宮を上回る社殿群を造営させた事で日光山内の霊地化、本社化を図ったと思われます。家康自身の意を汲んだ2代将軍徳川秀忠は久能山東照宮を本社と想定し、初期の日光の社殿よりも壮麗な社殿を造営していましたが、家光と天海によってひっくり返された格好です。
当初から天海僧上の主張もあり山王一実神道による神仏混合を採用し、薬師如来を本地仏を祀り他の日光山内の社寺と渾然一体となっていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の「二社一寺」に集約され日光東照宮は改めて正式の神社となっています。日光東照宮は現在でも多く社殿や寺宝を所持し特に本殿、石の間、拝殿、陽明門、回廊などは国宝に指定され、「三猿」、「眠り猫」、「想像の象」などの彫刻は日光三彫刻として名を馳せています。本地堂は神仏習合時代の名残を残す建物で、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行七間、梁間五間、三間向拝付、外壁は真壁造、江戸時代初期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。境内は輪王寺本坊、大猷院廟、二荒山神社などと共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。
日光東照宮と徳川家康
徳川家康は元和2年(1616)1月21日、鷹狩りの最中に倒れ、すぐさま近くにあった田中城(静岡県藤枝市)に運ばれ養生します。その際、見舞いに来た幕府の御用商人茶屋家の茶屋四郎次郎清延が差し入れしたのが「鯛の南蛮漬け」とされ、家康が一時体調を戻し「鯛の南蛮漬け」を食すと再び下痢と腹痛に苛まれます。その後、医師である片山宗哲の治療により動ける程度まで回復し1月25日に駿河城(静岡県静岡市)に帰城しましたが、一進一退を繰り返し4月17日、駿河城で死去、享年75歳。死因に諸説あり次の通り。
徳川家康の死因
・ 鯛の天麩羅を食べての食中毒。
・ 胃癌
・ 銃による狙撃暗
・ 寸白の虫(サナダ虫)
19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録である「徳川実紀」によると家康は吐血を繰り返し、便は黒く、手で触っても確認出来る程の大きなシコリが腹に出来、日を追う毎に痩せっていったとあります。これは胃癌の病状に非常に似ている事から現在では「胃癌」説が有力視されています。
家康は死去する2週間前の4月2日、自らの死期を感じ取り、側近である本多正純と天海僧正、金地院崇伝を呼び遺言を伝えたとされます。遺言は次ぎの通り。
徳川家康の遺言
・ 遺体は久能山(静岡県静岡市)に納めること
・ 葬儀は増上寺(東京都港区)で行うこと
・ 位牌は三州の大樹寺(愛知県岡崎市)に安置すること
・ 一周忌が過ぎたら日光山(栃木県日光市)に小き堂を建て、御霊を勧請し八州の鎮守となる
家康の遺言に従い4月19日には久能山に仮殿が完成し、棺に入れられた家康の遺骸と共に、2代将軍徳川秀忠以下、数百人近習による葬列が久能山まで続き、仮殿にて葬儀が行われました。10月26日には普請奉行本多正純、作事奉行藤堂高虎、大工棟梁中井正清の采配により日光山で家康の霊廟の建設が開始され元和3年3月15日に凡そ竣工しています(完全に完成したのは4月に入ってからで完成に合わせて家康の霊柩行列の日程が調節されたようです)。遺言によると「小さき祠」となっていますが、その霊廟は彫刻や極彩色などは限定的で徳川家康のものとしては控えめ建物ですが、他の神社の社殿の規模と比べると十分立派なもので遺言とは程遠いものとなっています。秀忠が造営した霊廟の多くの建物は3代将軍徳川家光が「寛永の大造替」した際、世良田東照宮(群馬県太田市)に移築されており、その一部が現在でも現存しています。同日、改葬した家康を乗せた霊柩が久能山を出立し日光山に向かいますが、ここでも1つ謎があります。家康の遺言では遺体は久能山に納めるとされる為、文字通り家康の遺骨は久能山に葬られたという説と、資料などから天海が自ら鍬鍬で霊柩を掘り出し金輿に移して・・・とある事から日光山に改葬されたとの説があります。
徳川家康霊柩行列の行程
・ 3月15日−善徳寺(御茶屋御殿?:静岡県富士市今泉)−泊
・ 3月16〜17日−三嶋(世古本陣?:静岡県三島市)−泊
・ 3月18〜19日−小田原(小田原城:神奈川県小田原市)−泊
・ 3月20日−中原(御殿:神奈川県平塚市)−泊
・ 3月21〜22日−府中(御殿:東京都府中市)−泊
・ 3月23〜26日−仙波(喜多院:埼玉県川越市)−泊
・ 3月27日−忍(忍城?:埼玉県行田市)−泊
・ 3月28日−佐野(惣宗寺:栃木県佐野市)−泊
・ 3月29〜4月3日−鹿沼(薬王院:栃木県鹿沼市)−泊
・ 4月4日−日光山到着、座禅院に安置
・ 4月8日−奥院廟塔に改葬
・ 4月17日−遷座祭
寛永9年(1632)、大御所だった徳川秀忠が死去すると、名実共に最高権力者となった家光はすぐさま、寛永13年(1636)に迎える家康二十一回忌法要の盛大に執り行う為、日光東照宮の大造営(寛永の大造替)が計画され、寛永11年(1634)に工事が着工され僅か1年半に竣工、約100万両に総工費を費やしました。3代将軍徳川家光は家康に対して信仰の対象に近い存在だったとされますが、それならば何故家康の遺言でもある「小さな堂」とは全く相反する、日本最大級の規模で当時の技術と文化の結晶を惜しみなく注ぎ込み豪華絢爛な社殿が造営されたのでしょうか。1つは日光東照宮の政治利用で、家康の神格化しそこに朝廷からの幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)や李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団(朝鮮通信使)などを迎える事で徳川将軍家の威光を天下に示しました。
もう1つは家光の徳川家に対する独特の思考です。一般的には秀忠とお江の方は3男忠長を寵愛し秀忠の「忠」を与え次期将軍へと画策したとされ、当時は規定路線との風潮もあり家光は廃嫡の危機だったとされます。この不穏の空気を一掃したのが家康の鶴の一声で、これにより長子制度が確立し家光の3代将軍の就任が事実上確約され、家光が家康に対する尊敬と敬愛を感じるのと同時に秀忠と忠長が憎悪の対象となりました。家光は自らを「二世権現 二世将軍」と考えており秀忠が造営した社殿で家康が祀られている事は到底我慢出来なかったと思われます。
日光山内・日光の社寺・世界遺産
[大猷院廟]:[輪王寺]:[滝尾神社]:[二荒山神社]:[本宮神社]:[四本龍寺]
|